Cycling Road & Route - Cycling Tomorrow Japan

足利学校&世良田東照宮・さざえ堂散走

ロード・コースのタイプ
一般道,自転車道
全長
約60㎞
所要時間めやす
約5時間
高低差・起伏
平坦なコース

【史跡・足利学校】
住所:栃木県足利市昌平町2338番地 電話: 0284-41-2655
参観料 420円
足利学校は、日本で最も古い学校として知られ、その遺跡は大正10年に国の史跡に指定されています。  足利学校の創建については、奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説などがありますが、歴史が明らかになるのは、室町時代の永享11年(1439)関東管領・上杉憲実(うえすぎのりざね)が、現在国宝に指定されている書籍を寄進し、鎌倉円覚寺から僧・快元(かいげん)を招いて初代の庠主(しょうしゅ=校長)とし、足利学校の経営にあたらせるなどして学校を再興してからです。  足利学校は、応仁の乱以後、引き続く戦乱の中、学問の灯を絶やすことなくともし続け、学徒三千といわれるほどに隆盛し、天文18年(1549)にはイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルにより「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介されました。  江戸時代の末期には「坂東の大学」の役割を終え、明治5年に幕をおろしましたが、廃校直後から有志による保存運動が展開されるなど、郷土のシンボル、心のよりどころとして足利学校の精神は市民の中に連綿として生き続け、平成2年の復原完成へとつながり、教育の原点、生涯学習の拠点として、新しい学びの心の灯をともしています。              (足利市HPより)

【鑁阿寺(ばんなじ)】
住所:足利市家富町2220 電話:0284-41-2627
鑁阿寺は、源姓足利氏二代目の足利義兼(あしかがよしかね)が、建久7年(1196年)に、邸内に持仏堂(じぶつどう)を建て、守り本尊として大日如来を祀ったのが始まりといわれています。  その後、三代目の足利義氏(あしかがよしうじ)が堂塔伽藍を建立し、足利一門の氏寺としました。  周囲に土塁と堀をめぐらした寺域はほぼ正方形で、約40,000平方メートルあり、鎌倉時代の武家屋敷の面影を今に伝えています。  境内には国宝指定の本堂など貴重な建物が多く、また大正11年には国の史跡に指定されています。  春は桜、秋はいちょうの黄葉が素晴らしく、市民には『大日様』と呼ばれ親しまれています

【祥寿山曹源寺(しょうじゅさんそうげんじ)(通称太田さざえ堂)】
住所:群馬県太田市東今泉町165番地 電話: 0276-25-1343
納金:300円
寺伝によると新田氏の祖義重が京都から迎えたという養姫である祥寿姫の菩提を弔うため、文治3年(1187)に開基したと伝えられています。また、境内には薗田氏一門により造立されたかと考えられる名号角塔婆や中興開基と伝えられる横瀬氏の五輪塔があります。  江戸時代に本堂が火災に遭い、その後、観音堂が造られ、観音堂を本堂としてきています。観音堂はさざえ堂と呼ばれ、江戸時代中期に普及・発展した三十三観音・百観音信仰を背景に、関東・東北地方に限って建造された三匝堂(さんそうどう)のひとつです。寛政5年(1793)に創建された建物で、間口・奥行ともに9間(約16.3m)、高さ55.5尺(約16.8m)であり正面は東向きです。外観は重層の二階建に見えますが、内部は三層になっています。堂内には秩父、坂東、西国の観音札所計百ヵ寺の観音像を安置し、右回りに堂内を一方通行で巡拝できることから「さざえ堂」の名があります。現在、埼玉県本庄市の成身院と福島県会津若松市の旧正宗寺と合わせて、日本三さざえ堂と言われていますが、曹源寺のさざえ堂が最大です。(大田市HPより)

【世良田東照宮】
住所:群馬県太田市世良田町3119-1  電話: 0276-52-2045
拝観料: 300円
 世良田東照宮は、世良田が徳川氏の発祥の地であることから、先祖の遺徳の高揚と世良田の守護神として、 徳川三代将軍家光公が二代将軍秀忠公の造営による日光東照宮の奥社殿を1644年(寛永21年)に移築、本殿を新築し、東照宮を勧請したものです。  創祀の折、家光公から御神領200石が寄進され、その後も幕府の手厚い保護の下、15回に及ぶ社殿の修復が行われました。  「お江戸見たけりゃ世良田へござれ…」と謡われたほど世良田東照宮がこの地方の文化・経済の発展に果たした役割は大きかったようです。  御祭神・徳川家康公の祖先は、新田氏の始祖である義重から世良田の他5つの郷を譲り受けた、義重の子・義季(よしすえ)です。  義季は5ヶ郷のうち利根川沿いの押切を「徳川」と改称し、自らの姓も徳川と称するようになりました。  1246年(寛元4年)頃に義季が亡くなった後、頼氏、教氏、家時、満義と続き、後に続く政義、親季、有親は南北朝の南朝方として活躍したものの、9代目の親氏の時 に北朝の攻勢に遭い、徳川郷を追われて出国し、諸国を流浪した後に松平郷に身を寄せました。  その折、当時松平郷主だった在原信重に入婿。松平親氏と称するようになりました。家康公が誕生したのは、それから8代後のこと。  25歳で三河国を統一した家康公は、自らの姓を「松平」から、徳川・世良田を開発した徳川義季にあやかり、「徳川」姓に戻したといわれています。

【太田市立縁切寺満徳寺資料館】
住所:群馬県太田市徳川町385-1 電話:0276-52-2276
拝観料:300円
世紀初めに時宗(一遍上人のひらいた遊行宗のこと)の尼寺(道場)であったことが、満徳寺についての最も古い確実な記録です。鎌倉時代、徳川義季(とくがわよしすえ)が開基となって満徳寺を建立し、最初の住職(開山)には、出家した義季の娘がなり、浄念尼(じょうねんに)と称しました。二世は義季の孫の浄院尼(じょういんに)で、浄院尼の名は長楽寺文書にも見られ、その後も代々新田氏ゆかりの人たちが住職になり、三世念空比丘尼(ねんくうびくに)、四世慈円比丘尼(じえんびくに)と伝えられています。  しかし、その後約200年間の寺史は空白となっています。おそらく新田氏の没落とともに満徳寺も衰退したに違いありません。 江戸時代、時宗の尼寺であった徳川満徳寺は、鎌倉の東慶寺と並んで縁切寺として著名でした。男女差別が厳しかった当時にあって、不法な夫(男性)から妻(女性)を救済するという縁切りの特権が認められた、いわゆるアジール(避難所)は世界に二つしか存在しませんでした。満徳寺と東慶寺の2つの縁切寺がそれです。文化6年(1809)正月に隣家からの出火によって、本堂をはじめ境内残らず類焼しました。辛うじて本尊や開山上人座像、歴代将軍の位脾、御朱印状などを持ち出したに過ぎません。 このため、残存する寺宝は多くありません。明治5年(1872)には廃寺になり、地域住民が本尊などを守り、昭和31年(1956)には、跡地の一部が群馬県指定遺跡「縁切寺満徳寺遺跡」に指定されました。
  【百体観音堂(成身院)】
住所:埼玉県本庄市児玉町小平661-2 電話: 0495-72-6742(観光農業センター)
拝観料:300円
百体観音堂は、生物のすべての鎮魂の塔で高さ約 20mある。外観は二階建てであるが内部は三層で回廊をめぐらし、一階に秩父三十四観音、二階に坂東三十三観音、三階に西国三十三観音あわせて百観音を祀っている。階段を順次登ると中央本尊である白衣観音を三めぐりし仏を礼拝する作法として、 最も丁寧な礼をすることができるように造られている。この観音堂は、回廊を螺旋状に登るところから「さざえ堂」とも呼ばれている。

百体観音堂建立の起因となったのは、天明3年(1783)浅間山の大噴火で、このとき溶岩が山麓の村々を襲い、焼死、溺死する物多く、川辺に近づくとうめき声が聞こえ、おびえるのみで誰一人弔う者がいなかったという。これを知った成身院第七十一世元映上人は、利根の川原に壇を築いて修僧を集めて死者の冥福を祈った。 さらに上人は、永代にわたって供養するため百体観音堂を建立した。この観音堂は、明治20年の火災で焼失してしまい、現在のお堂は明治44年に再建されたものです。

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